補償セミナリーライブラリBLOG

『わたしの歳時記』 ~弥生編~

更新日:2007/02/08

日射しの遠くに「北国の春」が見え始め、積もった雪の色が薄汚れるころ、さて、今年はいつ飾ろうかなと思う七段飾り。
なるべくなら私の休日に合わせてもらい、父の存命時は父に、父が他界してからは母に手伝いながらの雛飾り。
いま、この仕事を、姪の子供や孫たちに手伝わせ、私が引き継いだ。今年は何時飾るかと2月のカレンダーを覗くのが、私の年中行事のひとつ。

♪ 赤い氈敷きつめてお内裏様は上の段
金の屏風に……

教派神道教会であったわが家で生まれた6人姉妹。
「また女の子か」との嘆きもあっただろうが、それほど楽ではない生活の中で、祖父母や両親が揃えて呉れた雛人形は、ことのほか大きなものだった記憶がある。
内裏様は廉の中にあり、三人官女の立ち姿も大きかった。
さして間数があるわけではないが、ひな壇の飾られている期間、いつも一緒の寝室だった姉妹は、三つの寝室に分けられた。
ひな壇が大きく面積を占める事と、その時々の学齢に合わせ、受験勉強の場所も確保しなければならなかったからかもしれない。
今思い出すと、これもまた私にとっては浮き浮きする様な「晴れ」の時だった。
戦時中は、この雛壇を広げるわけにも行かず、内裏雛だけが箪笥の上に飾られた。
敗戦が10才の私にとって、この内裏様がことのほか記憶に残る。
戦後、札幌に移り住むが、生活は苦しかったのだろう。
その苦しさは、幼さが幸いしたのか、はたまた父の教育の賜物か、あまり覚えていない。しかし、3月弥生ともなれば、サハリンに置いてきた雛人形や、床の間に飾られた立ち雛の掛け軸、雛を詠んだ父の俳句の短冊が、色鮮やかに思い出される。
当時、どこの家でも雛飾をするほど余裕はなかったのか、ひな壇を飾る家に出くわした記憶はない。
わが家も当然の事ながら雛飾りはなかったが、3月3日の夕食はちらし寿司が並んだ。
6年ほど前、兄・姉と従姉の4人で「ふるさとサハリン」に足を運んだ。
わが家は取り壊されすでに更地。二階の窓から眺め慣れた鈴谷嶽の角度から、そこがかつてのわが家であることは、容易にわかった。
裏庭の角にあったグスベリの木。この辺りが台所…と、いつまでも話し込む外国人の一行に近づいてきた中年のロシヤ人。「この家は、去年壊した」という。
「やはり遅過ぎたか。」「残っていれば残っていたで、また悲しいかも。」と呟く。
教会だったわが家の台所には、祭りの直会に使う酒器や食器を入れる大きな作りつけの食器棚があった。せめて猪口の一つでもあればと、遺跡の出土物でも捜すような一行。
好意的な通訳が、我々のことを話したのだろう。「この家を壊した時、綺麗な入れ物を見つけた。あまり綺麗だから家に持ち帰ったが、返すよ。」とうロシヤ人のアパートに誘われるまま向かう。
少しばかり、欲が働いたのか、思い出が欲しかったのか、差し出されたその入れ物を手にする。
なんと、ウテナクリームといえば通じる年代も数少なくなったとは思うが、化粧品の入れ物。母が使っていたものか、隣のおばさんの物か解らないが、とにかく日本の物。
乳白色のこの容器を「美しい物・綺麗な物」とロシヤ人に思わせた日本の技術。
引っ込みつかない状況から、「スパシィーパ」「オーチンハラッショ」と一つ覚えのロシヤ語を口にする。
翌年は、わが家の跡地にアパートが建てられると聞かされ、「駄目かな」といいながらも、兄が引き揚げ時に、わが家の家宝とも言うべき日本刀を裏庭に埋めた事を話した。
「もし、日本刀らしきものがあったら、知らせてほしい」と。
その報告は未だないが、クリームの空き容器は記念品として、公園で拾った石と一緒に私の小さな神棚に納まっている。
敗戦時、ロシヤ兵に接収されたわが家。その二階の天井小屋裏に収納していた雛人形。
あれから誰かの目に触れただろうか。
そのまま、木造のあの建物と一緒の運命を歩んだのだろうか。
齢を重ねるほどに、思いが募る。

<わが家の新しい雛たち>
1949年、初節句を迎える兄の長女。少し心のゆとりもでき始めたのか、お雛さまが準備された。祖祖父母、祖父母、両親、叔母と係りある者からのプレゼント。
まだ10か月の姪より私の方が嬉しかった。
40数年、時には父と、時には母と飾ってきたこの雛人形。今年は愛猫の入室禁止措置を図り、真夜中に黙々と一人で飾った。あの初節句だった姪の5才の孫のために。
一つ一つ丁寧に包装された包み紙には、あるものは父の手で、あるものは母の手で、中身が何であるか解るよう筆字で記されている。
父の字のある物は、包装紙が破れることなく残った物であり、母の手による物は、この50年の間に、包み変えられたもの。父が他界して38年、母が他界して7年。まだ、私の手で記するものがないのは何よりと思う。
包み紙の筆字の一つ一つが、一年に一回、両親としみじみ語る一時となる。
しかし、姪も早50代。
ソーッと取り出す人形の首がポロリと落ちる事もある。
収納時には補修しておこうと思いながら、まだまだ飾り続けるつもりだ。
五つ重ねの重箱に納める雛菓子も準備した。
お白酒、ひなあられ、チヨコレート、そしてなぜか欠く事のできない金平糖も。
この金平糖の準備は、わが家の習慣。サハリン時代から続いている。
女系家族の中で、客人となる父も兄も好きな菓子。
兄は75才を迎えて、ひな祭りの客となる仲間が一人できた。女系家族の中に迎えられたひ孫
この子も2才になって初めて口にした金平糖が好きな様だ。21世紀を生き抜く現代っ子のバリバリ。「チョコも好き」と言いながら雛壇の前で、幼い足をきちんと折り、「あれは何?何というの?」と興味津々。
「これは火鉢、これはぼんぼり、これは牛車」と、問われるままに答え乍も、21世紀の子供には、何に使うものか解らずじまいの道具かな…とも思う。
ただひとつ、「これは鏡」と鏡台を指さした時、間違っても鏡の前でうっとりするような、今時の軟弱青年にはなって欲しくないと、いらぬ心配もよぎる。
この50年余り、雛人形の出し入れで父や母と過ごす事ができた時間。
他愛もない時間と人は笑うであろうが、私にとってはかけがえのない懐かしい至福の時間。
私の周りにいる子供たちが成長し、3月3日という1年に一度のこの日に、「懐かしいナー」と思って呉れる一時があればと願う。

<民族史にみるひな祭り>
五節句は、唐代に固定化し日本に伝わり、江戸時代に一般化したという。
正月7日の人曰は七草、3月3日の上巳は菱餅、5月5日は端午の粽、7月7日の七夕は牽牛織女、9月9日の重陽は菊節句。
『歳時習俗語彙』には、この五大節句のほかに50近い節句があるというが。
麦・生姜・栗・八朔などの名が付されているらしい。
時間ができたらこれも調べてみたい。農業国なればこそ、自然の摂理に係わる農歴節句行事であることは明白。
節句の元祖現代中国では、この五大節句はほとんど知られていない。
北京での短期留学時の講義、中国からの留学生との交流からも、いまや、日本の独特の行事として位置付いた様だ。中国は9月9日は、なぜか「教師の日」。日本でも9月9日が菊節句であることは薄れている。
故郷を離れたものは、新しい地で故郷の風習を色濃く残すものだと書かれたものを見た記憶がある。
日本人はどこから来たのか、日本の自然が生んだ日本人の美意識。
自然環境が壊されない事を祈るのみ。
3月の第一の巳の日、水辺で穢れを払う禊を行ったとある中国。これが「流し雛」になり「磯遊び」になり、「はまぐりと菜の花のお吸い物の誕生」と考えると、なかなか味わい深いものがある。
地域によっては今も残る「流し雛」。昔と違ってしまった雛の素材。河川を守る上で物議の種、真意を知れば、次代に残す流し雛の形を見つける事ができるだろう。
農事開始を控えての季節。今ならさしづめ仕事始めの準備。
いったん農事が始まれば休みなどは考えられない。ご馳走を作り、仕事前の一日、十分に「山遊び」「川遊び」に興じ、禊をしてその年の農事に当たったとするこの仕事への緊張感。しっかり受け継いでいきたいものだ。
足利時代、ごふんを塗って人形を作る技術が中国から入り、形代、ひと形だった紙雛も立派なものに代わり、庶民でもこれを手にし、毎年飾って毎年蔵にしまう習慣は明治からのものという。菱餅は心臓を象どったものという説もある。
21世紀も雛祭りは健全であってほしい。
庶民のわが家の雛たちは、すでに50年たち、あちこち傷み出したが、今年の雛納めは十分時間をかけて補修し、今少しわが家の歳時記、いや、「私の歳時記」に花を添えてほしい。
「早く納めないと嫁入りが遅くなるゾ…」と言われ続けたわが家の六人姉妹。
五人は早く嫁いだが、同じ環境の下で一人取り残されたのは何なのだろう。
戸籍名の最後の守り手として、わが家の新しい雛係りを自ら志願したからだろうか。
67才にして感慨ひとしをな弥生である。

記事一覧