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『わたしの歳時記』 ~葉月編~

更新日:2007/02/09

消える風物詩

北海道の夏は短い。8月お盆を迎えると、はや秋風が立つ。
子供たちの夏休みも大詰めを迎え、今や、自由研究と変わった「夏休みの宿題」に取り組まなければならないだろうが、そこは子供、遊び声がいつまでもマンションの壁に響いている。
「夏休み」といって思い浮かぶ絵は、白いランニングシャツに短パン、虫とり網を振り回す麦わら帽子の男の子。
赤トンボの飛びかう野原。
昨今、公園はあっても野原は消え、家並みの庭にひとつ二つ飛びかっていたトンボの姿もほとんど見ることができない。
5年ほど前、庭のレディースマントルに止まっていたトンボをスケッチしたのが最後かも知れない。
都会の夏…。何とも寂しい響きとなった。
夏の風物詩「七夕」。わが家の七夕は旧暦。
サハリンで暮らしていたころ、神主を生業としていた父はこのお盆を迎える8月を、忙しく暮らしていたが、それでも必ず柳を準備し、子供たちの願いを短冊に書かせ飾りつけてくれた。
戦後、札幌で暮らすようになっても、この行事は続いた。
七夕の準備は父の仕事、父亡き後はたった一日の事とはいえ、この飾りつけのない事が寂しく、その時々、気付いた者がその役に当たった。
世代が代わり、身近に4人の女の子がいるようになり、わが家の七夕も一段と華やかになったが、この子供たちもはや独立し始めた。
柳も手に入りにくくなり、「願い」という愛らしく希もなくなった身にとって、またひとつ、都会の夏が身に沁みる。
歩いて3分。そんな地理条件の中に会員制のスーパーマーケットがある。
当然大きな駐車場を構えているが、お盆の近づく頃ともなると、この駐車場の一部に櫓が組まれ3日間ほど盆踊りが繰り広げられる。
夕方6時過ぎる頃から、浴衣を着た子供達が何処からともなく集まる。
♪みんな揃って、チョチョンがチョン…
窓を開け放した一人の夕飼。
食卓に夏を思わせる一皿が増えたような思い。
それが、あの聞き慣れた「北海盆踊り」の太鼓の響きにと変わり、子供の時間は終わる。 そして9時ともなれば太鼓の響きも消え、子供達の花火遊びの声が届く。
湯上がりの窓辺に、北国の短い夏が繰り広がる。
この2年ほど前からこの姿が消えた。たかだか3日間の夏の饗宴も音が煩いという苦情の前にあえなく消えてしまった。
夏の風物詩がまたひとつ…。

民俗学からの考察

「奈良時代に『乞巧奠』という星祭りがあり、少女の技芸の上達を祈り願ったという。 正倉院にもその祭具の一式が伝えられ、観念が持続し今日に至る」とある。
男児も字が上手になるようにと、芋の葉の露で墨を摺り、短冊に腕を揮って字を書き、笹竹につるし庭先に飾った。
土地土地で生まれた行事もあるが、多くの土地で六日の晩に笹を立て、七日の朝にはもう流すからその夕にはなにもない。
この夜、雨が降れば吉とする村伝えが多いというところから見れば、七夕もまた、農耕儀礼の水の儀礼。子供、牛馬の水浴びや農具の洗い清め、飾り物の流しなど「禊ぎ」の祭儀。月半ばに執り行われる祖霊祭り斎忌の初めの七日前。
仏教渡来と相まって「ナヌカ盆」の盆行事と重ねる土地も多いという。
魂祭を「盆」と呼ぶのは一般に仏教の「盂蘭盆」の略。
インドの古い農耕儀礼と仏教の供養会が習合し農耕儀礼的性格から、わが国の固有信仰と比較的自然に結びついたものだろうという。
盆に迎える精霊を「お盆さま」と呼ぶ地域も多い。東北の一部ではこの精霊を「ホカヒサマ」と呼び、「ホカヒ」とは供物を入れる器物の名。古くは「ボニ」と呼ばれた日本語。 仏教以前の古い固有信仰の名残り。
「盂蘭盆」の説から見ると、わが家は神道だから係りないように思うが、やはり盆提灯を灯し、神棚には供物を備える。「古神道」ゆえの風習。
七夕も、本来その月の満月の夜の祖霊祭の準備作業のひとつであり、盆踊りは御霊を慰めるもの。
旧暦、すなわち農暦の「七夕」「お盆」こそ日本人の文化の源のひとつなのだろう。
常陸の国久慈郡では、この七夕に雨の一粒でも降らねば、疫病神が生まれるという言い伝えがあるとか。
父のルーツは、佐竹藩の関り。「水戸54万石の領主佐竹義宣が、関ヶ原の戦いのきっかけになった上杉征伐に際義宣が、日和見であったためとされる懲罰的な左遷により、石高は示されず秋田に転封になった」が、その時随行した家臣の中に「中川」の姓があり、これがわが家の最もさかのぼれるルーツらしい。
慶長七年、1600年代のこと。400年前までしかさかのぼれなかったが、家のルーツとして把握するより、生活を通してわが家に残された行事の中から、わが家のルーツを見る方がロマンがある。
父が伝えようとしたものが、わが家の節気行事から覗く事ができる。
「歴史」とは為政者のもの。
民俗史こそ民が築いた精神文化。たとえ、なんとなくわが家に残された節気行事であろうとも、そのルーツから「心の豊かさ」という、「無形の遺産」を残したいと思う。「節」とは、一年という期間の折りめのフシブシ。
漢語が入るまでは、これを「ヲリメ」といったらしい。
今や、「折り目正しい」の言葉すら死語。

21世紀に引き継ぐもの

北国には残念ながら笹竹はない。笹竹に変えて柳を利用してきた今日、その柳も店頭で求める時代。
短冊にしたためる願いも、マジックペン。芋の葉など目にする事もない。ましてや露なる言葉さえ消える自然現象。
「字」は書くものではなく、選ぶ時代。
「禊ぎ」として川に飾りを流すなどとんでもない事。
せめて精霊を慰めようとしても、やぐら太鼓さえ生活圏の「騒音」。
一昨年、中国東北の片田舎の町の企業研修に参加した。
夕食の後、「昨夜果物を買い、明日また来るよと果物屋のおじさんと約束したんだ」という同行者の律儀な約束を果たすために町に繰り出した。
アセチレンガスを灯す屋台が並び、値札も見えない暗がりの中、大勢の人が繰り出す中を市場視察としゃれ込んだ。
どこからともなく、中国独特のあの派手な鐘の音。
歩道の一角。町内会ごとに踊りが繰り広げられている。
「ああ!秧歌だ」
もともとは中国東北地方に広がる田植歌と田植え踊りらしいが、いまや8月末から9月にかけて踊られているもの。
左手の中指に、ハンカチほどの色とりどりの布が揺れ、右手には赤い沙の布で作られた大きな舞扇。リズムに乗って空を舞う。
子供も年寄りも、男も女も艶めかしいほどの身のこなし。
この光景は北京でも、9月の中秋まで繰り広げられていた。
そんなところから推察すると、収穫の踊りに変化したのかもしれない。
東北の田舎であれ北京であえ、町内単位で踊りを競うのは変わりないようだ。
最終日には仮装で踊るのも、どこか日本の盆踊りを思わせる。
いまや中国の食料基地東北。日本のシルバーボランティアの技術援助も加わり、豊かな農村に変わりつつある。
米しかり、葱しかり、果物しかり。
文革後の市民のエネルギーを見る思い。
日本の農村のたどった道。三ちゃん農業、休耕、大型機械化、出稼ぎ、流通機構のネット輸入の自由化…etc。セーフガードでは解決しないだろう。
土地で作られた自然のものを口にするのが健康の基本。
長雨や日照りにその年の収穫を案じた消費者の会話も消えつつある。
3年ほど前の夏、日本の建築を学ぶ中国の男の子がわが家に2週間ほど居候にきた。
若いだけに、夕食後はじっとしていられないらしく、大通り公園の盆踊りを見に行こうと誘われる。
シブシブ案内した。
踊りの輪の中に、札幌ロシヤ領事館の家族4人が、まさに入ろうとしていた。
これを見た中国青年、「踊ろう!踊ろう!」と私を誘う。
「嫌だヨ。一人で行きなさい。ここで待っているから」と誘いを断ったが、幼い子の様にしつこく誘うのに負け、「一廻りだけ」と条件をつけ、領事館の一行と一緒に踊りの輪の中に入った。
ロシヤ人も踊りの好きな民族。中国人も同じ。「チョットした国際交流かネ」と、ご満悦な居候青年。
9才の時、横浜に滞在する両親の元に一人で来たこの青年、この小さな都会で「北京の秧歌」を、懐かしく思い出したのかもしれない。
北京にいる御祖母ちゃんもこの期、秧歌踊りの輪の中にいるのかも…と。
白鴎大学の福岡教授は、「十年後ニッポン」の著書の中で、「20世紀に培った70パーセントは捨てろ!残すべき30パーセントには、命の尊厳、長幼の序など、生活していく上での基本的ルール。社会を形成する必要最小限度の基本的なポイントは残して身軽になり、新たなシステムの構築に取り組むことが重要」と述べている。
かってない地球規模の市場経済下、「然り」と頷けるものはあるが、「基本的なルール・基本的なポイント」こそ、消え行く日本文化の中にあるのではないだろうか。
「基本的なルール・基本的なポイント」を、民俗学から引き出したいと「葉月」の歳時記の中で思う。
その時始めて、心から「やぐら太鼓」の響きに心満たされ、夏を満喫できるのではないだろうか。
トンボを追いかける子供の姿、今一度戻る事を願わずに入られない。
その為の「痛み」なら甘んじて受けよう。いや、積極的に行動もしよう。その痛みに嘘偽りがないのなら…。
流すことのできない短冊を、天井に下げ、幼ならと一緒に願いを書こう。
「葉月」の「私の歳時記」は、次代に残す「民俗史」、わが家に伝える「無形遺産」作りになりそうだ。

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