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『わたしの歳時記』 ~長月編~

更新日:2007/02/09

1995、96、97の3年、この年の9月はいつも北京で過ごした。
何のことはない、北京市内の東端にある「北京広播学院」すなわち、アナウンサー養成専門学校で、「語学は環境」と意気ごみ短期留学、50代最後の秋を満喫。
「北京秋天」、北京が最も美しい季節。
新学期が9月から始まることと、入学には年齢制限がないこと、日本のバックアップがNHK学園であることが、初めて「海外一人旅」に踏み切った理由。
語学は心臓の、強さがものを言う。
一人一室の学生寮。一か月間留守をしても差し支えない者と云えば、大旨環境は同じリタイヤ組。ましてや趣味で選んだ語学を「本場で」と意気ごむ変わり種。
午前の授業のあとの余暇、週2日の休日は、たっぷりと散策できる贅沢さ。
自立した老人パワーがさく裂する。
宿舎での夕食のテーブルは、賑やかな情報収集交換の場。

月餅

(その1)
9月から10月の国慶節の翌日まで滞在する北京の留学生活。
この間に迎える中秋の名月。
この3年間、欠かさず鑑賞することが出来たが、さすが大地で見る月、その大きさには驚かされる。
「北京の9月」と賞賛される季節ではあるが、とみに公害汚染の広がる北京の空に浮かぶ月は、赤みを帯びた月。まさにルナロッサ。
札幌の透き通った空に浮かぶ月とは趣が違う。が、名月は名月。
帰国の日も近くなる頃の十五夜ともなれば、前々日から心も浮き立ち気味。
午前中の授業を終えた建国路も立つ商店街に足を伸ばすと、日本のクリスマス商戦を思わせる光景がある。
呼び込みの声も一段と高く、名物の月餅が溢れんばかりに渦高く積まれ、これを求める客で歩道は溢れている。
餡の種類の多さはどれを求めようか迷うが、吟味する余裕もないほどの人込み。
小豆、木の実、胡麻、砂糖漬け果物、鵜の卵などなどがタップリと入り、二段、三段に重ねた野点弁当風のもの、丸型、角型の箱詰めのもの、ばら売りと、とにかく様々。
その一個の重さは、ぎっしりと積まれた餡の重さ。一個の大きさもまちまち。高級なものほど小型のようだが、直径7センチくらいのものが一般的。しかし、甘いもの好きの私でも、一度に一個は持てあますほどのボリューム。
最初に留学した年は、学院創立40周年記念と重なったこともあり、十五夜の夜には宿舎の食堂のデザートは月餅。「さすが~」と感激し、今宵は屋外体育施設の観覧席から月見の宴をしょうと、部屋に持ち帰った。
「異国での月見の野外宴げ」までの間、宿題を片づけ様と机に向かったところ、学院事務室の張美麗主任一行が賑やかに来室。
何事かと迎い入れた時、ズッシリと重い箱が渡された。「今日は仲秋ですから学院からのプレゼントです。」
日本からのロートル留学生一人一人に5個入りの月餅の箱が配られた。
フーッと、「阿倍仲麻呂」なる名前が頭をかすめる。
異国での仲秋の名月は、何とも言えないロマンを覚える。ましてや黄砂に浮かぶ赤い月。
仲麻呂の時代は、現代より情操豊かな時代、ましてや歌人、はるかな異国で何を思っていたであろう。留学生の大先輩は、月に何を見ていたのだろうか。
中国というよりモンゴルの習慣らしいが、仲秋には家族揃って月餅を食べるため、遠くで暮らす子供たちも、この日は親元に集まるという。
どうしても帰る事の出来ない者は、月餅を食べながら遠く離れた家族を偲ぶのだとか。
この慣わしが漢民族にも定着したのが中国の今様仲秋。

(その2)
1990年、初めて黒龍江省からの研修生10人を札幌に招き、10日間程の研修を無事終わらせ、壮行会を計画。その日はちょうど仲秋節。
壮行会会場に選んだホテルに、和製月餅を準備してもらった。
宴もたけなわとなり、一人一人にこれを配ってもらうと、研修生は大喜び。
同席の日本人も、ホテル側もけげんそうな顔をしていたが、事の次第がわかり、一層なごやかな雰囲気となる。
研修生に所望した「十五夜の月」なるモンゴル民謡。その歌声が、また友好の輪を一回り大きくしたようだ。
翌91年の8月、夏休みを利用して、職場の仲間10人が黒龍江省を訪問。
研修生派遣の母体は黒龍江省軽工業庁。札幌での研修が大成功であったと、お礼かたがた我々の歓迎パーティーを開いて呉れた。
丸テーブルに並び切らないほどの料理の皿数、歓待の酒の香りに汗ばむ中、この熱気を避けるようにバルコニーの出てみれば少し黄色みのある大きな月が浮んでいた。
仲秋にはまだ早かったが、体格のいい孫さんが、札幌の宴を思い出すように、あのモンゴル民謡を朗々と歌ってくれた。
言葉は通じなくとも、通い合うものがあり、頬に流れる熱いもの。
戸惑いながらも、沢山の友人に励まされ取り組んだ初めての国際ボランティア。
小耳に挿んだ中国の月餅の習慣。こんな小さなことが、国際交流に花を添えようとは…。
国際交流はまだ緒についたばかりであったが、稔りの秋が近いことを覚えた。
一昨年の黒龍江省での研修時では、出入国の空港を瀋陽とした。帰国前日、ハルピンから同行して呉れた趙さんと瀋陽のデパートに立ち寄った。
一階と二階の吹き抜けの広場で、派手な客寄せしている一角。
赤い垂幕に書かれた「仲秋節」が、「月餅」の売り場であることを示してる。
「今年の仲秋は何時?」 「後三日」。
売り子のおばさんと会話をしながら、札幌で迎える十五夜の準備にと、栗と鶉の卵と木の実入りの月餅をお土産代わりに求めた。

「中国の月」と「日本の月」

(その1)
「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」
私にとっての「この月」は、十五夜とは関係なく「九月の月」を指す。
空がいつの間にか高くなり、月の色に一段と冷たさを覚える。
新古今集・紫式部の歌に『めぐりあいて見しやそれともわかぬ間に雲かくれにし夜半の月かな』が良く知られているが、心の動きを月に照らし見る姿は、日本人特有のものかもしれない。
古事記に言う伊弉諾尊の右の目から生まれた月読命、ギリシャ神話の月の神アルテミスなど月は女神。「太陰・桂・姪娥・嫦娥」など異名が多い。しかし、一か月で地球を一周し、太陽との係わりで満ち欠けを作る姿に、人の心に語りかけるものを見るのは、日本人だけなんだろうか。
「二日月」「三日月」「上弦」「下弦」「十三夜の後の月」「宵待ち月」「満月・望月」「十六夜の月」「立待月」「居待月」「寝待月」「亥の正刻に亥中の月・更待月」「子の刻の真夜中の月・二十三夜待ち」そして「残月」
男神「太陽」に異名のあることを私は知らない。
今まで見た月の中でも忘れられない月は、敦煌莫高窟にかかる残月と、北京長安街から見た仲秋節のあの大きな赤い月。
1990年、敦煌で開かれる「敦煌学会」に誘われた札幌シルクロードの会。会員の一人として、このチャンスを逃すわけには行かない。
ゴビ砂漠を歩くにふさわしいスタイルや如何に。
同行のK嬢と夜な夜な電話をかけ合い、熱い思いを抱き訪れた敦煌。
蘭州で見た黄河の色、河畔のぶどう売り、そして遂に触れたゴビの風。
三危山を望み、敦煌学院で開かれた学会。英語、中国語、日本語が飛びかう中で過ごした頃は、すでに頭の中は飽和状態。
3日間の敦煌滞在の中で、一日かけて莫高窟を参観。17窟はもとより、壁画の飛天の声が散華の如く聞こえる頃、今、この場に立つている現実に、苦しくなるほど締めつけられる思いがあった。
外の空気に触れたい…と外廊に出る。風鐸が砂漠の風にかすか音色を響かせ、緊張感を和らげる。ホッとして空を見上げた時、今にも消えそうなほの白い残月。
時間と空間を消してしまった残月の存在。今も鮮やかに残る。
『残月や 莫高窟の 秋惜しむ』

(その2)
還暦を迎えたことを機に、北京の留学も今少し控えようと決めた、3年目の北京の秋。
北京から来た青年のホームスティーを縁に、北京留学時の休日には、毎年その青年の家族の家に一日ぐらいは出かけていた。
70代の両親、30代の妹とその子供がいつも相手をしてくれる。
その年は、日本から一時帰国していた息子がいたため、休日を利用した近郊の保養地に、青年の運転で家族旅行に出かけた。
「北京ママ」と呼んでる母親が同行できなかったため、帰国間際に再度招待を受けた。
すでに退職した父親が、もと経済委員会の幹部であったため、長安街の経済委員会の敷地内にある公務員宿舎がその住まい。
いつもなら、片言の中国語と筆談での会話なのだが、この夜は通訳できる息子がいるため、いつまでも会話が弾み、腰を上げたのはすでに10時を過ぎていた。
夜が遅いから息子の運転では何かあってはいけないと、タクシーを呼び青年が同行することになった。家族揃って通りまで見送りに出てくれる。
日曜日の夜の長安街、エスチレンガスの匂いと、中国人特有の高笑いの響き、夜遅くまで続く賑を包む大きな大きな赤い月。
「ここは大陸」と主張しているかの様な、ゆったりとした温かな空間を描いていた。
「中国の月」と「日本の月」。
この宇宙には、二つの月があるのかもしれない。
今年、札幌に舞い降りた黄砂の量から推測すれば、中国の仲秋の月は、きっと一段と赤みを帯びていただろう。
何はともあれ、私の歳時記に、大きな位置を占める「月」。
9月の「月」以外に、私に語りかけてくる月に、札幌の冬空にかかる七口の冷たさを持つ上弦の月がある。
靴音をきしませ、背を丸めながら家路を急ぐ中、凍てつく空気の遠くから、刃物の切れ味を思わせる透き通った光を投げかける月。
その透き通った冷たさの中に「尊厳」の二字さえ浮かぶ。
雪が巷の騒音を消し、ただただ静寂を描く月光。札幌だからこその「凍て月」。
今年、雨雲の中にあった札幌の仲秋月、せめて冬の凍て月をじっくりと眺めよう。
~なかがわいとほ~
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