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『わたしの歳時記』 ~霜月編~

更新日:2007/02/09

今年の紅葉は10年ぶりといわれるほど見事な色つき。
我が家の愛猫の額よりは少しばかり広い庭も、真紅の落ち葉と桜の黄色の葉が、見事なコントラストを描き、毎朝ベランダのカーテンを開けるのが楽しみだ。
今朝も一段と落ち葉が占める面積も増え、夕べの雨が更に落ち葉の色を鮮やかに映している。
球根の植え替えも終わらせた庭、ガーデンテーブル等を片付けると、またいつもとは違った空間が広がる。
まだ、小春日和よりの陽射しもあるだろうが、いつ雪が来ても球根が根付くようこの落ち葉をかき集め、球根越冬のための布団を作る。
たっぷりと敷き詰めた落ち葉の一角、もみじの紅がこんなに綺麗だったことは、かってなかったことだ。
今年の夏から秋にかけて、気温が不安定だったことが原因のようだが、そのことに不満たらたらだったことも、この美しさの前では、帳消しになる。
人間の身勝手さを「ごめんネ。」と、素直に謝る気持ちになれる。
この後はしんしんと積もる雪の中で、騒音の消えた静かなときを「冬篭り」としゃれ込むことになる。
「半年の雪はいやだ」とか「寒さがいやだ」という人もいる。嫌がってもこれが現実。
ならばこの現実をプラス思考で受け止めたらどうだろう。
雪国の人間にだけ与えられた静かな半年。貴重なこの期間、有意義に過ごすための準備を始めるのがこの月。
さて、私の今年の霜月は何を準備しようかと思う。

「冬篭りの時間」

動物は冬眠の準備に、えさ集めに奔走しているだろうが、私は冬眠とは違い冬篭りだから、食料の心配はない。が、元来出無精だから、運動不足は要注意。
スキー、スケートと冬のスポーツもソコソコやるが、「明日、天気なら歩くスキーにでも行こう!」と決めていても、歩いていける真駒内公園さえ億劫になる。一人で出来るスポーツだから、朝の目覚めのよしあしで、あっさりと気が変わっていることが多い。
新雪の朝、太陽が燦燦と降りそそぐ日には、スキーよりまず家の前の雪かきが大仕事。
「老人の館」となった我が家、一番若い者がこの役につく。
これがことのほか面白い。自分の仕事の跡が、くっきりと見える。
角を付けるところはきちんと角を付け、ほうり上げた雪が転がり落ちれば、それもきれいに片付ける。
そこまでする必要性はないと家人に笑われても、とにかく性分らしい。
手足も頬もポッカポカ。結構いい汗をかく。私にとっては、これが冬の運動のひとつ。その後のコーヒーが、いつもの入れ方と同じなのに、一段と美味。
山頂で飲むインスタントコーヒーが美味と、山登りした若き日を髣髴とさせる味。
「運動不足をスポーツに求めなくとも、一人遊びは出来る」「老人の骨折は長引く」「老人の風邪は命とり」と、スキー中止の言い訳を呟きながら、「まだまだ雪かきのボランティアができる」とも思う。
決して自分が老人だなどとは思っていない。人一倍若いと思っている。
10年も前のスキーウエァーが、まだしっかりしているのだが、腰の周りが少々縮み、屈む動作が難儀。
改めて一着新調しようとしたが、ゲレンデ用と、歩くスキー用は違うという店員の御託が、「年寄りの冷や水」と囁いている様で、新調できかねている。
「じゃ~、スキー用が2着、スケート用も準備しなくちゃならないわけ?」と、いやみの一言を返す。
年を重ねるほどに、頑固さだけはしっかりと育ち、「移れば変わる世の習い」とはいかない。
消費の冷え込みが云々されるが、はや老齢化社会。使い捨てはおろか、形あるものは使い切る世代にとっては、ファッションだの、流行だのは縁がない。やむを得ず必要となるものが消費の対象。
このあたりを分析しなければ、消費は回復できないだろう。
気ままな時間、静かな時間、ボートしているのが好きなだけのものぐさな私にとって、この冬篭りは、せめて読書三昧が相応しい様だ。
「日本人遥かな旅~いま、見つめなおす私たちのルーツ~」。NHKスペシャル「日本人」プロジェクトのこの5部作に我が家のルーツを重ねる事を、ポツポツ進めれば、短い「身近な冬篭り」の時間も、老いの坂の入り口で充実した冬篭りとなることだろう。
真紅の落ち葉に、ボタン雪がかかる今朝。今日から「私の歳時記~霜月」は始まったようだ。

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