日刊せみなりーBLOG
不思議な力?
更新日:2014/05/18
潜在意識が人を動かすというけれど、
そうなのかもしれない。
私の父、
この補償セミナリーの創業者中川寿束は、
北海道庁で働いていた。
やっていた仕事は、補償の仕事、街づくりだった。
北海道庁を50過ぎで退職し、
この会社を起こしたけれど、
あれは、何の時だったろうか、
『小樽の運河は本当は、全部潰す予定だったんだ。
でも、俺は残すべきだと主張した。
絶対、観光の財産になると思った』
と、教えてくれた。
その時は、ただ、ふううん。と思っただけだった。
うちの会社には、
もう一人、北海道庁で補償の仕事をしていた中川絃穂がいる。
現在79歳、
働く女性の先駆けで、土木部と言う男社会の中で、
補償の理論構築に貢献した。
私の叔母である。
その叔母は、
北海道庁を退職したあと、
ボランティアで、
中国と関わっていたが、
そのお仲間が、
小樽のH合金のI会長だ。
叔母は、
本州からお客様が見えると、
小樽に案内した。
私も、一緒に行ったが、
運河沿いの観光地より、
坂の中腹にある味わいある喫茶店が気に入っていた。
ある時、叔母に、
『小樽の良さは、この坂と古い家並みだと思うんだけれど』
と言うと、
無口な叔母は、『そうだよ』と一言、言った。
父も叔母も、
仕事で街づくりに関わり、
会社まで起こしたが、
少しづつ感性が違っていた。
運河存続は、
その後、小樽を二分する大きな住民運動に広がり、
結局、運河は残り、
小樽を観光の街に変え、年間600万人を呼び寄せる要になった。
行政の中で、
数少ない存続派だった父は、
嬉しかったろう。
そして、
三年前、私はひょんなことから、
この小樽の古い民家を、
見かけはそのままで、
内部を変えながら、
活用し街並みを残す運動に関わることになった。
昔、叔母に何気に言った『小樽の良さは、この坂と古い家並み…』
を残す活動だ。
小樽の相棒は、
偶然か必然か、小樽運河を存続させた旗頭Iさんだった。
うちの会社の仕事は、
街づくりのお手伝いだ。
それも行政側のお手伝いだが、
いつか、行政と民間の運動の橋渡しが出来たらなと、
この活動に参加している。
なんとなく、
父の感性と叔母の感性を、
小樽のみなさんの力を借りて、
融合した形に出来るのではないかと思って…。