日刊せみなりーBLOG

父…

更新日:2014/07/12

FacebookやLINEとか、
頭の良い人たちが色々発明をしてくれたお陰で、

友人たちとの交友が増えた。
そのFacebook友達の一人に、

Tさんがいる。
私より少し年上のTさんは、

50代で独立し、
お婿さんが社員で、昨年、もう一人社員さんが増えた。

Facebookには、
営業で飛び回っている様子の他に、

7人の孫さんとの事もよく載っている。
私は、このTさんの投稿を読むたびに、

自分の父を思い出す。
父は、北海道庁に務めていたが、

53歳で今の会社を起業した。
うちの会社の生業である【補償】の仕事は、

元々は、役所で全て行っていたが、
時代の流れと共に、

民間委託をされるようになり、
父は、その委託先になるべく起業したのだ。

その父が起業した1週間後、
私たち夫婦は結婚をし、

次の年には、長女が生まれた。
私は看護婦をしていたので、

夜勤に残業、夫も忙しく、
次々に次女、三女も生まれ、

てんてこ舞いだったが、
父は、『今日なら保育園の迎えは行けるぞ。』

と、
よく保育園の送り迎えをしてくれていた。

冬になると、
除雪の悪い保育園の前でよく車が埋まり、

JAFのお世話になったこともあったようで、
そのうち、父の車はパジェロになった。

『パジェロじゃあないと、あの道はダメだ』
保育園の送り迎えが、買い換える原因だったらしい。

今、
自分たちが経営者という立場になって初めて父の偉大さがわかる。

起業は生半可の大変さではなかったろうに、
孫の保育園の送り迎えまで買って出たバイタリティは、

父のどこにあったのだろうか。

モゴモゴN社長である私の夫に仕事を教えつつ、
自分でも全道を車で走り、

会社を大きくした。
補償コンサルタント協会と言う新分野の協会を立ち上げ、

その活動も盛んに行い、役員にもなった。
難しい論文を書くような仕事になると燃え、

『これはな、りんごのわい小化栽培に関する補償について書いたんだ』
と、私に嬉しそうに話していた。

樺太の豊原中学校の同窓会も幹事となって、
頻回に行い、《こけもも》と言う同窓会紙も発行した。

今日のTさんのFacebookの投稿は、
帯広からだった。

全道を元気に走り回るTさんに、
再び、昔の父の姿を見た。

あの頃の父に負けないように頑張らなくちゃあね。

私たち夫婦は、
三人の孫を保育園に迎えに行ってくれたあの頃の父と、

同じくらいの年になった。

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