日刊せみなりーBLOG

父の命日に

更新日:2017/08/14

今日は、父の命日。

私の父は、
53歳の時、

長年勤めていた北海道庁を退職し、
この会社を作った。

その当時の私は、
自分の青春を生き、

夫と結婚をし、
看護婦をし子どもを作り、

etc・etc
忙しくて、

父のことを
考える余裕もなくいたが、

その後私たち夫婦は、
父が創業した会社に夫婦で働き、

今は、
その会社を次世代に繋ぐべく

若い社員たちや、
当社を第二の人生、

第三の人生と
選んでくれた社員たちと、

日々、
明るく元気に!


モットーに

夫ことハリマオウN社長を頭に
奮闘中だ。

私は、姉と二人姉妹、
父母共に30歳の時の子で、

末っ子の甘えっ子で母っこ。
一時も母から離れない子だったと思う。

なので、
私の記憶の中に、

はっきりと父が出てきたのは、
小学校高学年で、

一緒にキャンプに行った時からだ。
それまでは、

父と一緒に
組合主催の行事に行った記憶があるが、

母がいない心細さで
楽しくはなかった。

かといって、
母と何かをした記憶があるかといえば、

それも特にないが、
中学校に行っても、

母と寝ていたくらいだから、
かなりの母っこだったと思う。

それが、
キャンプ以降、

父との思い出が増える。
中学校は、北18条の私立だったので、

南23条の官舎からは遠く、
時間がある時は、

父は車で学校まで送ってくれた。
今考えると、

公務員の身で、
当時自家用車を持つのは

大変だったと思われるが、
母のやりくり上手は、

今でなら
売れっ子講師になれるのでは?

と言う腕前で、
『車で借金をした事はない』

そうで、
貯めてから買う!を

実践しており、
父は自動車通勤をしていた。

父に学校まで送ってもらう間、
何を話したのか、

それとも何も話さなかったのか、
覚えていないが、

父との距離は
思春期から急速に縮まって行ったと思う。

私に子どもができると
自分も起業し忙しいのに、

随分と孫たちの面倒も見てくれ、
愛してくれた。

うちの次女が
100万人に一人と言う大病をした時は、

毎日のように病院に顔を出し、
娘の苦しい闘病を励ましてくれた。

父はもともと
面倒見が良い人で、

母方の甥姪の面倒も
よく見ていたし、

愛されてもいた。
決して、口数は多くなく、

飲んでも多弁ではなかったが
岡山の義理の甥は、

大きな人生の決断事があった時、
札幌を訪ねてくれていたようだ。

父は、
人から裏切られる事はあっても、

人を裏切ることは決してせず、
若い頃は蛮勇であったようだが、

経営では、
コツコツと堅実で

初めての借金で建てた社屋は木造で、

バブルに
踊らされることもなかった。

そんな堅実な経営を
ハリマオウN社長と

引き継いでいきたいと思う。
今日は、11回目の父の命日だ。

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