日刊せみなりーBLOG

命日は。。

更新日:2018/02/12

今日は、義父の命日だ。
早いもので、

義父が亡くなって8年がたつ。

義父が亡くなった年も
凄い寒波だった。

釧路で一人暮らしをしていた義父は、
豆まきの日、

お寺の豆を貰いに行き、
何を思ったのか、

マイナス20度の中を
40分近く歩いて自宅に帰り、

冷えから腸閉塞を起こし
緊急入院をしたけれど、

1週間後
肺炎で亡くなった。

94歳だった。

ちょうど、
ハリマオウN社長は

伊勢に出張中だったが、
戻ってきて釧路の病院についており、

また私も休みだったので
釧路に行っており、

急な旅立ちだったが、
兄夫婦、甥っ子とともに

看取れて、
本当に良かったと思っている。

私は、
15年の看護婦生活で

多くの方々の臨終に
立ち会わせて頂いたが、

やはり
できることならば、

家族の看取りの中で
旅立つことが最良と思うので、

その時を見極めるのも
看護婦の重要な役割だと

思っていた。
義父は、

本当に最後まで意識があり、
苦しくなる中で不安だったのか、

『芳、帰るのか?』
と、気にしていたけれど、

『今日は病院に泊まるよ』
と言うと安心したようだった。

義母は、
その4年前に先に旅立っており、

義父の一人暮らしは、
兄夫婦に助けられながら、

洗濯掃除は自分で行い
愚痴の一つもこぼさず、

それはそれは
あっぱれなものだった。

義母が亡くなってからは
お盆と正月は我が家で過ごしたが、

ひ孫たちと遊び、
夫と晩酌をし、

義母の思い出を語って
いつもにこやかな人だった。

なによりも凄いと思ったのは、
戦地で凄まじい経験をしているのに、

その話をすると義母が悲しむからと
一切言わず、

自分は通信兵だったから
戦争でも辛い思いはしていないと、

義母に信じ込ませていたことだ。
札幌にきて、

私と二人の時、
義父は、ポツリポツリと

戦争に行った時の話をしてくれたが、
義母に言わなかったと言う精神力に、

脱帽だった。
もっとも、義父は、

会社の愚痴も絶対言わない人で、
義母は、

『助かったよ。
愚痴を聞いてもどうしてあげようもないからね』

と言っていたっけ。
すずらん印の砂糖会社に

勤務していたためか、
めちゃくちゃ甘党の義父は、
おかずがなかったら、

砂糖をご飯にかけて
食べていたそうだ。

もちろん、
和菓子は大好物だった。

なので
今日は柳月で

お饅頭を買って帰るつもりだ。
本当の甘党は、

六花亭のお菓子では
満足できないらしい。

今日、
ハリマオウN社長は

福島に出張だ。
義父の事を思い出しながら、

ひとり酒をしようかなと
思っている。

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