補償セミナリーライブラリBLOG

『わたしの歳時記』 ~新年編~

更新日:2007/02/08

「21世紀に残したいもの」

いつもなら20日に届くはずのお餅が届かなかった。
たぶん忙しいのだろうと思いつつも、頭のどこかに、まだ、餅切りの仕事が残っていることを記憶させながら大晦日の一日を過ごしていた。
わが家は、古神道の神社の家系。
そのためか、子供のころから新年を迎える行事は、何かときめごとがあり、その一つ一つが正月という「晴れの日」を迎える喜びであった。
餅つきは26日ぐらいには終わり、拝殿のすす払いを初め正月の準備はすべて30日までに終えるものだった。
元旦には、信徒さんの初詣がある為、朝食は早くにすませるならわし。その為、大晦日は早めにお風呂に入り、年越しのそばを食べ、母が支度してくれた真新しい晴れ着と真新しい下着を、着付ける順序にたたみ重ね、枕元においてふとんに入る。祖母や母、年かさの姉たちは、大晦日は床につく事無く過ごす。
年かさが小さいものは、自分の事は自分でする元日の朝を迎える。
まず、若水が父の手で汲まれ、お水玉に移され神棚に備えられる。
拝殿に家族揃って元日の参拝、その後、一人一人の朱塗りの膳がロの字型に並べられ、祖母と両親、兄、姉妹が年の順に膳につく。
子供たちは一人一人父の前でお屠蘇をいただき、新年の挨拶を交わすと同時にお年玉を貰う。
何とも言えぬ晴れがましさの中で新年を迎えたものだ。
戦後、札幌に移住して神殿と、朱塗りの膳は消えたものの、若水から始まる習慣はそのまま引き継がれてきた。
25才で独立し自分の居を構えても、新年はこうして迎えるものだと根付いていた。
しかし、何時からか定かではないが、フト気がつくとこの風儀に変化が起きていた。
準備にかかる事は、餅つきが消えたくらいでさして変わりは無い。
問題は、元日。大晦日のTV番組で除夜の鐘を聞き、「往く年来る年」で映し出される巷の風景に、うつつを抜かした付けが朝寝坊につながる。
公務員生活も長くなると、私にとっての「晴れの日」は、誕生日と重なる4日に移動。
3ケ日はせめて普段の和服を楽しむ程度の寝正月。ただ、大きく変わったのは、お年玉として姪や甥にせめてポチ袋でも準備し、親不孝をわびる程度のお年玉を、存命時の両親に届けていた事だろうか。
退職してはや8年。仕事始めという「晴れの日」が消えた今、「晴れ着」も消え、3ケ日さえ消えている。お年玉のあて名も、姪の子供、その子供の子供えと変わり、その数も増える一方。一族の繁栄と綺麗事では片づけられない。が、一方で姪や妹からお年玉が届き、誕生日の4日には花束が届き、姪の子供たちから手作りのケーキが届く。60の半を過ぎれば、大きな変化が起きている。

初春や 六十路の坂の 折り返し

とりあえず、今年も意識して若水を汲む事から始めるが、これとて水道の蛇口をひねるだけのこと。しかし、これとて気持ちの上では若水。これでお雑煮をと思ったところ、お餅が届いて無い事に気付く。
「お正月がない!」一瞬焦るが、年の功か諦めも早い。その分年を取らずに済むかもとほくそ笑みながら、パンを手にするが何となく落ち着かない。若水を使ってコーヒーを落とす。気持ちの上ではいつもの朝とはチョット違った感じ。

若水ハ マズサイフオンヲ ミタシオリ

川柳での幕開けかと呟く。

階下の兄の家に娘や孫が集まり出したのを機に、紫の袱紗にお年玉を並べたお盆を持って階段を下りる。
階下の一室には、7年前、母が他界した折に設けられた神棚がある。6帖の和室を4帖半にかえてしまったほどの大きな神棚であるが、その大きさ故か、今や、わが親族の中心をなして居る。先ずこの部屋に入り、一族の御霊に新年の挨拶。
兄の食卓で、お屠蘇をいただき、お年玉を配り、わが食卓で準備できなかった訳ありのお雑煮をここで肩代わりして貰う。まずまずこれで、私にもお正月が無事来たことになる。
建築当時、3世帯住宅としてめずらしがられたこの家も、今や老人3人2世帯の棲み家となり、加えて、3才の猫と10才の犬が、世帯区分を取り払し、わがもの顔に走り廻り爪を研ぐため、あばら家同然の様変わり。しかし、神棚のある部屋だけは立入禁止。
更にこの冬も、庭の餌台に群がる雀水、庭木の支柱に刺した林檎を啄ばみに来る椋鳥がこのあばら家を賑やかにしてくれる。 いつの日かこの2世帯も消えるだろう。
今、親族の中心であるこの大きな「神棚の間」とて、この家と一緒に消して差し支えないのだが、せめて先祖が残した新年を迎え風儀だけは、少しの手抜き、形の違いがあったとしても、心のよりどころとして残っていてほしいと思う。

初春の庭や雀の賑にぎし

「21世紀に見つけたいもの」

正月料理の若者離れは今始まったものではない。若者でなくとも21世紀ともなれば食生活も大きく変化したことは、誰もが認めるところ。
年始に見えた客人に、これと言うご馳走がなくなったのは、何とも寂しい。
まして、元日の初売りも珍しくない今日。
「晴れ」と「け」を明確に区分できた時代の方が、貧しくとも心豊かに新年を迎えたのだろう。
「晴れの食」のひとつがお餅となった私にとって、元日からマーケットが開いているとは言え、「元日草々お財布を開けるものじゃない」と言われ育ったためか、買い物に出かけてまで、日常的に陳列されてる切り餅を求める気持ちにはなれない。
かといって、3ケ日「晴れの食」にありつけないのも落ち着かず、何となく台所の食品庫をがさごそあさってみる。「製造月日95年3月3日」「賞味期限製造日から5年」と書かれたアルミ泊の袋が目についた。
神戸の、あの信じられない震災を契機に、非常食を準備したのだが、昨年、賞味期限が切れるとあって入れ替えをした時のもの。
これが、「水だけで出来る即席・あべ川餅」フリーズドライ応用食品とあったため、もし、2千年問題が発生した時にでもと、食品庫に入れておいたもの。
幸いなことに、この袋に手を掛けることなく迎えたミレニアムが生んだ賞味期限切れ。
「賞味期限とは何か」・・・・・・。
一日でも期限切れの食品は捨てると言う若者には眉をひそめる。期限最終日と翌日との間に、どんな違いが生まれるのか、いつも気になっていたこの表示。
ましてや10ヶ月も期限が切れた非常食品を見つけたのだ。
賞味期限とは、品質の変化、味の変化なのだろうが、もともとの味を試すことができないことに気がつく。
ものはフリーズドライ。原材料は餅澱粉、きなこ、砂糖とあるところから、さしたる問題も起きないだろうと試食する。非常食だから用意するものは水だけ。袋にかかれた「お召し上がり方」に従い即席あべ川餅を作り上げる。見た目にはそれらしく映りおいしそうだ。「晴れの味」に少しばかり飢えていたこともあり、出来たてを□にほおばる。
「う~ん。美味!」これが95年3月2日よりも味が落ちてるとは思えない。
賞味期限保持の方法、企業の味覚、消費者の味覚、何よりも自分の味覚。
となると、賞味期限といっても、賞品の個別の特徴が見えなくちゃならない・・・・等と、こ難しいことを考え出す。
「晴れの味」を求めた結果が思わぬ深見に入り込み、出口が見えない。
新年早々何を考えているのかと自嘲気味になった時、ふ~っと出口が見えた。
まず21世紀は、個にこだわろう。賞味期限表示規制で付された期日を云々するより、すべからく個から出発しよう。個が大きかろうが小さかろうが、個をしっかりと見据えた時、きっと何かが見えてくるはず。
今世紀、個が残すもの、個が残さなければならないものが見えてくるはず。それを見つけるヒントの一つとして、「歳時記」にこだわり、「私の歳時記」を編むでみよう。
21世紀の入り口で跡絶えざるを得ない事を意識して。

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