日刊せみなりーBLOG

小樽にて

更新日:2019/12/22

冬至の今日、
小樽でのお通夜に参列する。

私にとって小樽は、
ずっと遠い存在だった。

特に
知り合いがいるわけでもなく、

ただ、
樽商大だけは、

高校時代から
特別の存在だった気がする。

そのうち、
小樽の運河という言葉を

耳にするようになった。
まだ観光化される前の小樽だ。

いわゆる、
運河闘争と呼ばれた頃だった。

父は、
運河は一部でも、

残した方が良い。
と言っていた。

でも、
私には意味がわからなかった。

看護婦になってから、
小樽の注目度が急に上がった。

私は後輩に連れていかれて、
最初の北一ガラスに行き、

大きな倉庫の中の異空間に
心が踊った。

その後、
運河付近を中心に、

本州からお客様が見えると
お連れするようになった。

今ほど、
観光客も多くなく、

味わいがあり、
お客様には絶対的に

喜ばれた。

30歳を過ぎた頃、
後輩の看護婦の

親御さんのお通夜が
小樽で行われ、

私も参列した。
小樽の坂の中頃に建つ、

モルタルの町内会館が
式場だった。

通夜が終わり、
外に出ると、

真っ暗な坂道に
オレンジの街灯が光っていた。

坂の下は海なのだろうか、
真っ黒だったが、

街全体が
友の悲しみを

受け止めているような
気がした。

その後、
私はうちの会社に入り、

今度は入札で
小樽に行くようになった。

小樽は近いから、
当たり前に日帰りなのだけれど、

ある日、
姉が言った。

『小樽にある薮半というお蕎麦屋さん、
すごく美味しくて、

雰囲気があるのよ。
近いけど、

一度小樽に泊まって、
薮半で

お蕎麦でいっぱいやってごらん。
めちゃくちゃ美味しいよ』

当時はまだ私は酒豪だったから、
こりゃあ行かねば!

と、
チャンスを待ち、

小樽の指名が入るのを
待った。

なんと、
不謹慎な。

だが、
理由がないと、

夫や子どもを置いて、
小樽には泊まれない。

そして、
その日が来た。

石蔵を移築し、
古い建物を

そのまま使ったお蕎麦屋は
味わいがあり、

美味しさが
倍増する感じだった。

私は、
熱燗と、

板わさと
天ぷらを頼んだ気がする。

お蕎麦が入らず、
つゆだけのメニューもあった。

なんとも言えない空気感に
私は日常も忘れ、

次は休みの日に来ようと思ったが、l
小樽に泊まるという贅沢は、

中々実現せず、
そのうち、

出向く入札は減り、
薮半でいっぱい!

は、
お預けになった。

そして、
何が私を小樽に結びつけたのか、

私はある日、
小樽にNPOを作った。

小樽の古い建物群は
宝の山だ!

と気がついて。

そして、
その活動に陰ながら

力を貸してくださったのが、
薮半の店主小川原さんだった。

生意気な私の話に
耳を貸してくださった。

小川原さんの支えなくして
今日のNPOはない。

今日はその
小川原さんのお通夜である。

末席に座らせて頂き、
ご冥福をお祈りさせて貰おうと

思っている。

小樽の大きな宝物が
一つなくなったようで、

小樽の夜が
暗さに沈んで見えた。

お節介の達人
マチづくりのご相談承り役 中野むつみでした。

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