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『わたしの歳時記』 ~如月編~

更新日:2007/02/08

「草木の更生する季」

雪国に生まれたにもかかわらず、社会的に認知された老齢期に入ると、雪の訪れと共に冬籠もりになる。
冬籠もりとは言え、庭の仕事が極端に減る程度で、街に出向く事は冬に限らず俗に言う出無精に過ぎない。
一日一杯、ながら族よろしくCDをかけ机に向かい、また来る春の耕作に思いを寄せ、限られた畑地を思い遣る。
特にしんしんと雪降る夜は、ベットに入るのも惜しまれるほど至福の時間。
街の音が消え、寒さの中で畑地がじーっと地味を肥やしていると思えば、冬眠も決して味けない事ではない。自然界の動物に過ぎない人間が、文明というものを造り出してから、「すり切れ現象」が起きるのも当然な事なのだろう。
世界に存在する暦には、西暦、イスラム暦、農暦、太陽暦、太陰暦などと言われるものがあるが、2月、草木の更生する季とする陰暦の異称「如月」は、令月・麗月・酣春・仲陽・梅見月などとの美しい呼び名もある。
何はともあれ、子供が楽しみにしている「節分」がある。
「鬼は外・福は内」…。3日の夜ともなれば、あちこちの家から豆まきの声がしたものだが、マンション林立の咋今、とくに都会では、その声も聞こえない。
豆まきの風習が消えた訳ではない様だが、外に向けた声が聞こえない。
子供のいる家では、部屋の中で「大豆」からその役を譲られた「落花生」や「チョコレート・飴」など、紙に包まれた菓子類を混ぜた家庭ごとの「豆まき」は現存する様だ。
本来の豆まきの豆は「大豆」。
日本独特の文化「古神道」からみれば、豆の丸さに意味がある。
すべてのものに生命があると考える古神道では、生命すなわち「霊・魂」は丸いもの。この霊の力が萎える事は、万物が萎える事になる。冬の寒さの中で萎えた力を蘇らせ、芽吹きの準備に入るが、その蘇らせには、霊の丸さに丸いものをぶつけ、丸さを大きく成長させる。これこそ物理学の理論。
とすれば、ぶつける先の「鬼」とは何かと言う事になる。霊力が萎えた鬼に霊力強化を図る事になるのだから、俗に言う「厄払い」の厄神ではない事になる。
その土地に居留する者の土地の結界を常に守っているのが「鬼」。その鬼の力が衰えたのでは、翌日からの「立春」に始まる1年が覚束なくなる。守りに力を発揮してもらう霊力拡大行事が「豆まき」となる。ちなみに、日本文化の原点といわれる中国では「豆まき」の形はない。中国語で「鬼」と書けば「妖怪」の意味。日本人の感覚から見ても、「鬼」と「妖怪」は違う。
「古神道」の面白さがここにもある。
例えば神道の、「しめ繩」も結界を意味するもの。家を建てる時も、四方を縄囲いし、四隅に塩が盛られ地鎮祭や棟上げ式が行われているはず。
結界を守る者は鬼だけではない。仏教渡来からは、お地蔵さんがその役を果たしているのもある。信州に見る道祖神もそのひとつだろうと思う。
縄文から弥生、唐の文化、仏教の渡来の歴史から「豆まき」も、意味が変化したのだろうと思うが、日本の豆まきの始まりは平安時代だとする説もある。

<わが家の節分のルーツを探る>
幼少の頃のわが家の「豆まき」の夜は、和紙に小銭と自分の年の数の入り大豆を包み、四つ辻に投げに行かされた。「帰り道は決して振り返るなョ口をきいてもいけないヨ」の祖母の言葉に送られて。
10才前の幼い時のことだけに、あの緊張感は今も背に残る。
わが家の玄関を出て左手を行けばほんの5・6メートルで通りに出るのだが、その通りは丁字路、右100メートル行かなければ四つ辻がない。樺太の2月、雪の壁が続くこの道のり、姉の手をしっかり握り、一目散に帰ったあの頃が思いだされる。
厄落としの一つだったのかも知れないが、樺太で生まれ育った私は10才で敗戦。
解せないのは厄年ではないのに厄落としをさせられたことだ。きっと何か別な意味があったのだろうが、今となってはその意味を聞くことも出来ないのが残念だ。
何年か前、「環日本海・謎の古代史」という本を繰っていた。この時、今まで忘れていたこの思い出が、突然、彷彿とする部分に遭遇した。
能登に民俗学者、折口信夫の歌碑がある事でも有名な「気多大社」がある。
この能登には、母方の家系で千百数十年続く神社があり、現在、100代目の宮司、母の従兄弟の息子が神社守。この宮司の母、私の母の叔母が昨年白寿を迎えたが、丁度5年ほど前、ぜひお会いしておきなさいという母の勧めを思い出し、生前の母へのご厚情の礼を携え出かけてみた。
神社に直系の姪の子供が来るとあって、日もとうに暮れた神社の参道の石灯籠すべてにあかあかと灯がともされていた。
翌日、気多大社が近い事もあり、兼ねてから、父の口を通して覚えていた折口の歌碑も見たいと訪ねた。
気多の社の裏には、うっそうとした森があり奥の宮がある。このため、関係者以外立入禁止の立て札があった。
神社に戻り、この話題になった時、その叔母は「なぜ気多に行くと言って呉れないの」と叱られた。「あの森に、この神社の関係者は入ることができるし、奥の宮を御参りできたのに」と。
この時、何となくシマッタとは思ったが、時間もない事だし又の機会にと思い神社を後にした。
その気多大社の事が「謎の古代史」のひとつとして書かれていた本を繰っていたのだ。
大社の神は大己貴命、すなわちオオクニヌシ。出雲の神。
本殿背後の「入らずの森」は聖地。聖木タプ・スジダイ・ツバキ・ヒサカキなど亜熱帯性照葉樹があり、奥の宮の古代祭祀の霊場。
大社には、その神事の間「一言も言葉を発してはならない」とするものや、大晦日に奥の宮のしめ縄替えにあたる宮司は、その神事の帰り道、振り返ってはならないとするきまりがあると書いてある。身震いを覚える。
節気行事を欠かさず行う友に、この四っ辻の豆投げの話をしたところ、聞いたことがないと怪訝な顔。
なら、この能登地方、気多大社と関係があるのではないかと思い、ライフワークに取り組んだ「古代史とわが家系」に、またひとつ何かかが見えたような胸のときめきを覚え、また能登を訪れた時にあらためて調べて見たいと秘かに心に留めている。
樺太での節分の夜、父が祝詞をを上げながら大豆をいり、神棚に上げ、「節分祭」の祭りごとの済んだ後、拝殿の間から順次升の中の豆をまく。しかし、おぼろげだが豆拾いのあの賑いは、大豆だけでなくお菓子や落花生もあったからではないかと思われる。
6人姉妹と祖母、母、時には兄も加わっての豆拾い。厳寒の節分の団欒の一こま。
翌朝、階段やトイレにつながる長い廊下、机の下に夕べの名残を見つける。何となく得したような気分でソーッとポケットに忍ばせた幼い時の思い出。

<大豆派と落花生派>
BUNBUN・ 2001・FEBRUARYの紙面に、『落花生をまくのは、北海道と東北地方。つまり雪の多い地域、殻付落花生なら、雪の上にまいても気にせず食べられるからで、まく豆と食べる豆は使い分けする方向にある。伝統や習慣に縛られず、合理的に割りきって新しい文化を受け入れる土地柄の道産子。キヤンディーなど豆以外のお菓子を混ぜるのも北海道流。大豆が常識の本州でも、物を無駄にしない、衛生的の観点で落花生を使うケースが少しずつ増えてきている。』とあり、母方の家系が、能登・函館・樺太と移動した中でわが家独自の「節分」があったのかも…と思う。
『落花生は秋冬にとれる豆、カロリーが高いことから、もともと冬に食べる豆として寒い地域で好まれる傾向にある。』らしいが、それはそれとして、お隣中国では、この落花生を使った料理が多い。使い方もほとんどが生豆を食材としたもの。
日本では「落花生」と「ピーナツ」と表現すれば。その加工形態が解る食品。
ここからもう一歩突っ込みを入れて、落花生のルーツを訪ねて見たいもの。
広辞苑によれば『マメ科1年生作物。ボリビア原産。世界中に広く栽培され、マメ科では大豆に次ぐ。インド、中国に多い。わが国には18世紀中国から渡来した。』とある。
異人豆、南京豆、唐豆、関東豆など呼ばれ、「加藤清正関東豆一升喰って、おなかは太鼓でお尻はラッパ・プカドンプカドン」と歌いながら落花生の食べ過ぎを注意しながら食べた事も思い出す。
しかし、加藤清正(1562~1611)は16世紀の人。
この童歌の「関東豆」は何だったのだろうか。

<節分の行方>
それにしても、中国の落花生は美味。余りにもその味を褒めたためか、旅行トランクいっぱいの落花生を土産に持たされたのは、3年前の黒龍江省での事。
重量超過料金を払ってまでも持ち帰った事もあり、姉妹や友人に一言どころか十言も添え土産として届けたが、届け先からは美味絶賛。
北海道と黒龍江省が友好提携し、人の交流から今や物の交流に入る段階を迎えているが、互いに国の位置付け、自然条件から、食料基地の力を発揮できればと思う。
そのためにも、今、この自然環境をもう一度見直し、さらに豊かなものとしてこの大地を21世紀に残したいものだ。
そこには、ただ「豆まき」の節分、厄払いの節分ではなく、本来の節分の意味が残るのではと思う。
古くから「豆」といえば「大豆を指す」と言うが、節分の豆が「霊」の衰えを補填する丸い物でなくとも、口奢った子供のためのお菓子が混じろうとも、まだ雪が残っていようとも『立春』を迎える準備、「草木の更生」を願う民間伝承であり、祖先が残してくれたものとして続いてくれるだろう。
「福は内・鬼は外」と豆をまく後に、すりこ木を持って「ごもっとも・ごもっとも」といいながら後に続く人もいると笑いながら話してくれた母。その意味を聞く等、覚えもつかない。
戸口に柊の枝と鰯の頭やにんにくなど、臭気あるものを打ちつけ厄払いをする形は、ヤイカガシと呼び、田畑のカカシと同じく、その香によって目に見えぬ邪霊を払ったものと聞く。
本来の節分行事がなんであったかは、はっきりしないが、新しい季節を迎えるに当たっての邪気払いの行事として残ったのだろう。社寺の追儺の行事は多い。
その年の恵方を向いて一本儘の「恵方寿司」にかぶりつく習慣もある様だ。
その意味するものにこだわるなら、きっと自然を見つめ直す何かを見つけるだろう。
札幌のデパ地下やスーパーでは、今年初めて「恵方寿司」が閉店まで賑々しく売られていた。
「福の神」は家の中で、「鬼」は外で、責任文旦明確に新しい年すなわち春からの仕事についてもらう行事が豆まきと解せば。「豆まき」もなおざりにするものではない様だ。
雪も班雪に変わりつつある。さて、今年は何を植えようか。
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