補償セミナリーライブラリBLOG

『わたしの歳時記』 ~文月編~

更新日:2007/02/09

「文月」と聞くと、何となく便りを書かなくちゃ…と思うのは、「文」の連想かもしれない。
咋今、メールは届いても、「便り」は届かなくなった。
封書のあて名の字は、裏を返しても差出人を確認しなくとも、「何があったのかな…!」封を切る手ももどかしく開封したものだ。
曲がりなりにも組織人という制約された時間を持っていた時は、いくばくかの自由と、自分の時間を、職場からかすめ取るようなスリルを感じながら、手紙を書いたものだ。
あて先は当然厳しく限定。
このスリルな遊びは、遊び心と、その中にチョッピリ潜ませた本音をくみ取ってくれる相手に限られる訳だ。職場スケッチや寸評、時には生々しい心情の吐露、葛藤などもぶつける便り。
受取人は、当然、この組織なるものを理解している事が前提になるのだが、幸いな事に、この条件を満たして余りある受取人がいた。
いま思えば、私にとって、全く貴重な存在。しかも無類の才女。
時には私の心情の吐露に拍車をかけ、時にはやんわりと否め、しかもビルの中にいては感じる事のできない季節の小さな動きを交えての返信。
「主婦だから」のことわりをつけ、巷の人々の暮らしと、会話のやり取りを、ユーモア描写で伝えてくれる。そんな時は、ホーッとするものと、ハッとするものが交錯するひととき。
いまや、準主婦的生活と言うより、準隠居的生活の中に埋没した時間を過ごしているとあれほど好きで書いた手紙も、書くのが億劫になった。なんたる変り様か。
「形容詞」はおろか「固定名詞」さえ出てこない。
「エ~と。あれは何だったケ?何というものだったケッ?」…独り言ばかりが口をつく。
決して、老化現象と簡単には片づけたくない。が、この辺り、ヒョットすると気張りの裏に潜む「老人性頑固症」か。
緊張感のない時間のなかに身を置く怖さにゾーッとする。

異常識の谷間で

特定グループ、特定の年齢間、階層間にのみ通用する「常識を」を「異常識」と言うらしいが、現代の若者の行動を異常識の視点で観察すると彼らには彼らなりの常識がある。
「使い慣れているし、まだ十分使えるから」と、頑なままに「現代機器」に目を背けてきた私に、彼女らの都合で「新機種」コピー、FAX、メール機能付き電話がプレゼントされた。孫のような姪の娘たちが、愛知と長野で学生生活を送る様になり、手紙を書かない世代としては、メールで用件を届けてよこす。
老眼鏡に頼らずともメール文が読める様にと、ウインドーの大きい電話が選ばれたのだが、その分、本体も結構な大きさになり、サイドテーブルにその位置を占めた。
メールが届く度に、その前にたち、慣れぬ手つきでボタンと格闘すれば、長い時間立ちっぱなしになる。これはたまらんと子機を使うが、子機なればこそこのウインドーは当然小さい。食卓の前にドカッと陣取り、のんびりメール打ち。
料金節約を念頭に置きながら、あれこれ注意事項をひとくさりで打てば、指先はムクミ、目は疲れ、漢字変換ともなれば、老眼鏡と天眼鏡がセットで必要になる。
メール文を印刷することも覚えたが、印刷用紙は折り込みチラシの裏紙を使用しているとは言え、カーボン紙代も馬鹿にならない。
時間をかけ、悪戦苦闘で打つメール。届いただろうとホッとしたのもつかの間、折り返しのメールが届く。しかも、こちらの文より長々と打たれている。
どうすればこのスピードになるのか。
「ボケが怖ければ指先を使い、脳の働きと連動させるのが一番」。
友人との茶飲み話に、知たり顔でほざいていたが、私のメール打ちの速度では、「ボケ予防」は期待薄し感。
こともあろうに返信メール、「変換間違えていたヨ」「たまには手紙を書いて…」とある。

何たることか!と思いつつも、それじゃと希望に応えれば、なしのつぶて。
心配になり、バイトから帰宅した時間帯と見計らい電話を掛ける。
「えー!いまポストを見る。アッ。あった!」
我々の世代は、家に着くなりポストを覗くのだが、手紙には縁のない子供たち。賀状すら「届いてる?」と聞かなければポストを覗かない。これではメールをうち続けるより方法がない様だ。
「おばちゃんの手紙の字が読み醜いから時間がかかった」と苦情も届く。
しからばと、ワープロを打つことになるが、文末は「じゃぁ、また」で止める。
その度に、「これにて、筆を置きます。」「末筆ながら…」なる言葉も、きっと死語になるのだろうと思う。
かと言って、メールであれワープロであれ、文末が「これにて打ち止め。」では、パチンコや。
白鴎大学の福岡教授がゼミの学生に「この10年で何が変わるのか」と言うレポートを書かせたところ、その中に『郵便局はなくなっている。現行の年賀状も、シルバー世代の一部に残るだけで、メール賀状が主流になる。郵便配達もなくなる。民間の配達便に!」とあったと言う。うーん、然り…。
異常識の谷間に組み込まれているシルバーとして『のほほん』としてはいられない。
利便さの陰で消えていく文化。
四囲が海に囲まれ、めりはりある四季の中で培ってきた日本の文化。 今、その豊かさの根源が破壊されつつある。
せめてその豊かさが「絵文字」に取って変わられないよう、乱筆、悪筆の評にもめげず、筆、いや、ペン、いや、正確に言うならばポールペンを持ち「便り」をしたためるのが、異常識の中の、意気軒昴なシルバーの役。
となれば、七月の「私の歳時記」は「肉筆の便り」と決めざるを得ない。

異常識文化のルーツ

公務員人生の3分の2を、補償業務に従事したことからか、専門学校に「補償講座」が設けられた事を機に、この異常識を謳歌している若者とふれ合う機会に恵まれて4年。
第一年次は、三桁の若者が講堂を教室とした物理的条件の不整備もあってか、私語、居眠りが目にあまる。
公務員であっても、用地業務についたばかりの職員は無論のこと、その熟練職員であっても「生きている世界が違う」「外国にいるみたい」「早くこの仕事から逃げたい」と言うほど、一般公務員からはかけ離れた分野の業務。
まだ、親の細い脛をかじっている若者に、講座の内容は雑音としか聞こえないのでは…とも思った。
一講座を5人の講師が分担している事にも原因があるのか、考え方が悪いのかとも反省もしきり。
それにしても、人の話を聞けないというのは、世間にあっては致命傷。
知人の何人かの大学教授に話したところ、大学も同じだという。
教室への飲料の持ち込み、缶コーヒを飲みながら講義を受ける者、携帯電話に応答する者さえ居るという。
幸いな事に知人の教授は、「類は友を呼ぶ」の部類だから、これを抛って置かないが、ユーモアで諭う様を聞かされ愕然とした。
間もなく、成人式の若者像が問題になったが、これこそ異常識の中の非常識。
受験準備をしていたわが家の子供たちにこの話をした。
「エ~ッ!飲料の持ち込みは駄目なの?」「持ち込んでるの?」「だって、休み時間には飲みきれないからモッタイナイでしょう!」「短い休み時間、何処で買うの?」「学校の自販機」。
高校には、自販機がある事を知った。
我々の時代にも校内売店はあったが、忘れ物の半紙やノート、お弁当では足りないクラブ活動後の、あの三角ジャムパンか豆パンが買えるくらいの施設。
異常識発生の舞台裏のひとつを見る思い。
短時間で一分野を学び、即、社会人に飛び立つ専門学校の若者。飲料、携帯電話の持ち込みはなかったが、私語と居眠りを思うと、ドシャ降りの雨の日の登校日は「登校拒否」の気分に襲われる。
講師承諾条件として、なるべく長く続けてくれる事、教科書以外の生の素材を組み入れる事というのがあった。
引き受けたからには泣き言でもないと、2年次からは教室の条件も整備してもらい、「社会学」の組み入れを試みた。
21世紀、国際化、情報化、老齢小子化、ハイテク化の中で、心の時代、男女共生の時代、女性の時代、地方の時代を仕事を通してどう生き抜くか。
喫茶店にたむろして議論する先輩に憧れ、時に口を挟み、笑われたり、ちゃかされたりして育った我々の目から見ると、この学生たちは「ひ弱な若者」と映る。
せめて一方通行の形は取りたくないと、「社会学」めいた講義の感想を寄せてもらう。
次回までにその一つ一つに応えるコメントを添え、「一期一会」と題したレポート集を作り学生に返す。せめて二年間、ともに学んでいる友との語らいの一助けになればの思いから徹夜のワープロ打ち。
中には全文平仮名のレポートもある。「情けない!」と思う片やで、表現は幼くとも求めているものは前向きなのを知る。
「もっと大人と語りたい」「こんな授業は初めて」「これなら着いて行ける」。
こんな感想は今も圧倒的に多い。「落ちこぼれ」は、誰が作ったのか。
先の大学教授も「社会学」の欠陥が現大学の欠陥という。
配布したレポート集を手にし、まず自分のところを読んでいる。本来の授業の中でも、レポートに触れながら解説。うなづきながら視線を返す若者。
聞く耳がないと片づけるは早すぎるのかもしれない。
4次目を迎えた今期、学生数の少ない事もあるが、私語を交わすものは一人もいない。
社会現象に怯えるこの若者を前に、「夢と希望と勇気」を持たせなければ…と、90分を語り続ける。
あの戦後の混乱期をくぐり抜け、今日の社会を作ってきた者も、自然の摂理とはいえ減少の一途。
団塊の世代がもがいているこの時こそ、シルバーがこれを補うべきだろう。
それをしなければ、異常識世代を生んだ団塊の世代、団塊の世代の成長に背を向けたシルバーの責任は「赤字社会」を補正しないまま、21世紀に引き継ぐ事になる
2015年、この目の前の若者たちは、既に社会の中堅。私は80才。そうなる前に、この仕事を団塊の世代に引き継いでもらわなければならない。
「漢字は書くものではなく選ぶもの」が常識の若者。
マニュアルの存在が常識の若者。
IT革命の中で、情報は引き出せてもそれを生かすマニュアルを求める若者。即ち、知恵の欠落。
彼らが「考える葦」として自立できるよう、シルバーの「いぶし銀」を今一度磨き、「未筆ながら」と「これにて打ち止め」を使い分けながらも、この異常識世代と真正面から向き合い、我が人生を「黒字」で閉じたいものだ。

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