日刊せみなりーBLOG

家がなくなるということ

更新日:2019/11/04

実家を取り壊すことに
なった。

私の父が、
昭和47年に建てた家だ。

私が生まれたのは
南23条にあった官舎で、

100坪以上の敷地に
台所、居間、六畳間が二つの

平屋建だったけれど、
祖父母や叔母たちも同居だったので、

屋根裏部屋を作って、
叔母達も姉も私も

そこが部屋になっていた。
三角屋根の傾斜部分が

ベットの天井で
一番天井高が高いところでも

大人は屈まないと
通れなかった。

祖父は広い敷地で畑を作っていて、
最初に飼ったシェパード犬は

その庭に眠っていて、
そこには沢山のスズランの花が

咲いていたのを
覚えている。

そのうち、
そんな贅沢な官舎は許されなくなり、

私が17歳の時、
父は今の川沿に土地を買って

家を建てたのだ。
ちなみに、

南23条の官舎の後は、
今は道警の独身寮が建っている。

だから、
私は、川沿の実家より、

南23条の官舎の方が長く住んでいたのに、
今、実家を壊すと決まると、

心が急にわさわさして、
少々心を持て余し気味だった。

会社の横に実家があるため、
取り壊しや残置物処理などの

手はずを私が進めているが、
空き家となった実家に入るたび、

なんだか少し
イライラするのだ。

母は、
元気にホームで暮らしているし、

実家の傷み用が尋常ではなく
いつ天井が落ちてきてもおかしくないので、

壊すことは、
母も姉も納得済みなのに、

もちろん私も
納得なのに、

心がわさわさして、
何かに腹立たしさが出てくるのだ。

これは一体
何故だろうか。

うちの娘達は
学校から帰ると私の実家で過ごしていたので、

いわゆる鍵っ子にはならなかった。
そのため、

誰よりも
実家を壊すことが辛いようだ。

特に、
本州に嫁いだ長女や次女は。

実家の家が
何よりも温かい思い出の宝庫なのだろう。

私も、
その実家に支えられて、

働き続けることができた。
母と父のお陰だ。

その想いと実家の建物が
一つになっているのだと思う。

実家の二階には叔母も居たから、
想い出は限りなくあるのだ。

今回、
取り壊すことが早まったのは、

本当に家の傷みかたが
尋常でないからで、

それはほんの少しの
雨漏りが原因だった。

不思議なことに
二階屋を通り越して

一階の天井が落ちかけてきた。
たった2年の間にだった。

母が健在なうちは
実家を残したいと思ったし、

どうにか再利用できないかとも
思ったが、

その私の気持ちに
区切りをつけさせるほどの傷みかたで、

もしかしたら、
これは亡くなった父の思いやりなのでは?

とも思っている。
もし、家が傷んでいなかったら、

膨大なお金をかけてリフォームする決断も付かず、
かといって、

壊す勇気もなく、
ずーっと空き家のままでいたのかも

知れない。
いつかは区切りを

つけなければならないのだ。
明日から残置物処理が始まるが、

父の名前の表札を
そのままにしておくのが忍びなく、

外してきた。

取り壊し前日は、
神主さんにお祓いをお願いする。

その時、
表札も一緒にお祓いをしてもらい、

家と一緒に処分をして貰おう。
と思っているが、

何よりも、心の区切りが
一番難しい処理のようである。

お節介の達人
マチづくりのご相談承り役 中野むつみでした。

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