日刊せみなりーBLOG

共感性と共鳴性?

更新日:2019/11/30

以前、友人に、

むつみさんは共感性が高いから、
看護婦さん、大変じゃあなかったですか?

と、
言われたことがある。

たしかに、
自分でも共感性が高いと思っていたが、

看護婦時代、
共感して看護にならなかったことは、

あまりなかった。
どうしてだろう。と、思っていたが、

先日、
友人のFacebook投稿を読んでいて

気がついた。
私は共感性は高いけれど、

共鳴性は
あまり高くないのだ。

思うに、
共感することと、

感情が共になることって
違うのね。である。

看護婦時代、
共鳴してしまうと泣けてきて、

看護ができなくなった。
例えば、

ご主人の癌の告知を奥さんにする場面で、
奥様の心に共感するが、共鳴しないと、

奥さんの肩に手をかけ
静かに部屋に送ることができる。

ところが、
共鳴してしまうと、

自分も嗚咽が起きちゃうのだ。
これでは話にならない。

私の場合、
共鳴しやすかったのは、

子どもの死。
これは多くのお母さん看護婦さんは、

共鳴しやすい。
自分の子どもとダブルからだ。

自分のこととなってしまうから。

そして、
末期の奥様の姿に落胆し

肩を落とすご主人の姿にも、
共鳴しやすかった。

これは自分が死んだら、
夫はどんなに悲しむだろうか。

と言う、

夫の気持ちになっているが、
まあ、実際はわかりませんよねー

でも、
まだ私も30代だったし、

そー言う想像になったわけですよ。
夫の悲しむ姿に耐えられなかった。

ということ。
これも、自分に当てはめた共鳴。

きっと、
相手の出来事として、

共に感じるのが共感で、
そのことが自分ごとになるのが、

共鳴なんだなあ。
時と場合によっては、

共鳴はめっちゃ大事だけれど、
少なくとも、

看護婦は共鳴しちゃうと
プロにはなれないか。

もしかして、
私が人に話を聞くのが好きなのも、

この共感力の強さと
共鳴力の弱さのせいなのかも知れない。

今日は小樽で
旧寿原邸の勉強会に参加した。

というより、
主催者側だった。

参加された30名近くの方々は
皆さん、小樽を愛し、

寿原邸を愛しておられた。
もちろん、私も一緒だ。

めちゃくちゃ共感しながら、
挨拶の時は涙が出ないように

気をつけた。

寿原邸の中にいると
共鳴しやすくなるから。

主催者は、
来てくださった方々が

心から満足し、
小樽への愛を感じて帰って頂かなくては、

やった意味がないから。
私が挨拶で泣いたら興ざめだろう。

お陰様で
参加された皆さんは

とても喜んで帰って下さった。
良かった。

きっと、
共感と共鳴の差は、

客観性の差なのだなあ。
ど真ん中にいて、

客観性を持つのは大変だけど、
目指すは、

渦の中心になっても、
周りを見られる力か。

看護婦時代を思い出し、
共感性と共鳴性の両方を持ちたいなあ、

と、
思っている。

マチづくりのご相談承り役中野むつみでした。

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