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『わたしの歳時記』 ~卯月編~

更新日:2007/02/08

新年に次いで心機一転、新たな決意をもてる4月。
出会いと別れの季節でもある。
「新」の字が巷に溢れるのもこの季節。
縦長の日本列島、「桜咲く」「桜散る」と悲喜こもごもだった3月、好きに付け、悪しきに付け、この4月、新年の決意が、たかだか3カ月で崩れても建て直しの効く新しい門出の月。
輝かしい眼差しが「ピッカピッカの1年生」であることを主張している。
1番輝かしいのは何と言ってもランドセル組、次いで新入社員。
このピカピカ組を介助する先輩1年生も、チョットは輝きを取り戻す。
たとえ輝きを取り戻せないロートル組であっても、改めてそこはかとした決意を抱く月。
このロートルからも取り残された今の私、4月の「歳時記」は「父」の一字が占める。

●桜に寄せた父の想い

桜をこよなく愛した典型的な日本人。享年69才、今から45年前、「あと長くとも半年でしょう」という冷酷なる医師の言葉どおり、4月19日この世を後にした。
まだ、北国の雪深い12月、病室の窓辺。暖かな日差しがあった。
いつも静かに横たわっている父が、珍しく枕元に私を呼ぶ。「何か用?」気軽によると、「辞世の句を託したい。覚えておいてほしい」とのこと。動揺する母に目くばせをしながら、動揺してはならないと動揺する私。精一杯の冷静さで受け止めた。
小さい時から記憶力に自信のない私にとっては一大事。こればかりは書き留めるわけにもいかず、全身で受け止める。
水枕を準備する氷割の時、何度も口にしてみる。父に託された大事な遺言として。

〃 われ死なば 桜のもとに集まりて酒くみかわせうからやからよ〃

「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と歌った西行は、その歌のとおりの季節に世を去った。が、西行を愛し、芭蕉をこよなく愛した父は、桜の季節を待つことなく他界した。
辞世の句のとおり、桜が咲いたら、うからやからが揃って花見をすればいいことなのかも知れないが、そんな事では済まされないと思った私は、とにかく桜を捜しに町に出た。
当時の札幌駅の西5丁目には陸橋があり、その橋のたもとに小さな花屋があった。
数少ない花屋の何軒かを廻り、この小さな花屋で見つけた彼岸桜。一見して華道の稽古用とわかる彼岸桜の束。事情を話し、何とか分けて貰いたいと懇願して手に入れた。
急ぎ帰宅すると、父は烏帽子直衣の装いで、棺に納まっていた。その顔は少年の様に思えた。
その足下に、買ったばかりの大束の彼岸桜を置き、初めて辞世の句を家族に披露。
この時、やっと重い緊張感から解き放たれたのを覚えている。
戦後間もない頃、南23条にあった道の公宅で兄と暮らしていた父は、町内会の世話役を引き受け、その仕事の中でも町内の衛生管理にはことのほか熱心だった。自らリヤカーを引き、火挟みを持ち町内の清掃に明け暮れた。七夕には、「衛生思想普及児童絵画コンクール展」を開催。その夜は、大きな行灯に標語を書き記し、児童たちが町内を練り歩くなど、まさに今様の活動をしていた。この時の児童が早50才代。「あの時のおじさんが懐かしいよナ。」と、回想の一言が届く。資金集めも知恵の出し合いもすべてボランティア。珍しい活動として「知事賞」「市長賞」をうけていた。そんな日々の中で、ある時豊平川の川岸に小屋をくみ生活していた者を見つけ、民生委員の仕事の枠を越え、彼らの衣食の世話も始めた。
この小屋に通いながら、この豊平川の堤防を人々の憩いの場にしたかったのだろう。「桜堤」を提案し、市や土木現業所、開発局等に足を運んだが、当時の役所の考えでは堤防に「工作物」の設置等はとんでもない話。無念にも父の情熱は敢え無く消されてしまった。今、あちこちの河川敷に「桜堤」が作られ、付近住民の憩いの場となっているが、この様をきっとほほえましく見てるだろうと思う。
その娘として道に奉職し、仕事がらみから河川担当の技術職員との交友ができ、桜堤や近自然工法の話が出る度に、陰ながら微々たる応援のエールを送ったのも、父の影響だったのかもしれない。いや、影響というより無形の遺産をいつの間にか体にしみ込ませていたようだ。

●父を語る

秋田生まれ。佐竹藩ゆかりの教育係の家老の流れをくむらしい。
「源氏の出でだゾ」・・・。サハリンの冬の夜長の語らいで、いつも聞かされていた。
29 才で覚えた酒の味、この酒をこよなく愛し、人が好きで、とりわけ不器用に生きてる人をこよなく愛した人。学歴はないが、書に親しみ、文学書に親しみ、俳句、短歌など生業を神職とした為か無類の努力家。信徒宅の慶弔ごとや、神社の雅楽の奏者として日々奔走し、時には碁を打ち、句会に席を並べ、直会いの酒の席も多く帰宅時間はいつも深夜。
まだ陽が高いうちの帰宅のときでも、近所の広場で神官装束姿のまま、草野球の観戦に熱中する程の野球好き。戦後のプロ野球誕生では、御多分に漏れずジャイアンツファン。どの家庭にもTVが茶の間の位置を占めるころ、チャンネル権は父の手に託された。
その応援振りは、廻りがハラハラするほど熱が入り、ひざに載せた拳が小刻みに震える。
野球の場合はまだ時間差があるが、これが相撲となれば血圧の上昇が心配。
ジャイアンツ敗北の日は、わが家は惨憺たる状況。高笑いは禁物。
サハリン時代、神職で帰宅が遅くとも朝3時には起床、朝の御勤めまでの間に畠でひと仕事。子供心に父は夏は寝ない人かと思わせるところがあった。
サハリンの冬は、マイナス30度は常だったようだ。供物の酒瓶も、この温度になれば酒が氷り、蓋の冠が持ち上がる。たぶん酒の味が変わるのだろう。母が何本も保存されている一升瓶に毛布を巻いていたことを思い出す。
信徒達からは、「先生」と慕われ、信徒の家族の悲喜こもごもを共にし、加えて碁、雅楽の友、時には貧乏芸術家も集まり、何日も逗留していた。中には信徒の子供が進学し、わが家から通学していたものも何人かいた。
さして広くないわが家だが、客人のある時は母の手伝い以外は、2階で子供たちは時を過ごす。1男6女の子沢山だったが、子供のいる気配のない家だといわれるほどの静かな暮らし。
父の生業からいって、服装は和服が多い。黒い先皮に毛の縁どりをつけ、3っの突起のある滑り止め金具が歯の裏に打ちつけられた下駄。通称「雪下駄」と呼ばれる雪国独特の履物。
厳寒の雪の夜路、この下駄が「キュッ、キュッ」と雪をきしませる。この雪のきしみの音は、誰の足音か不思議と判る様になる。だから、どの音が父の足音か聞き分けることもできる。「あっ!帰ってきた。」誰かの声で子供たちは階段を転げるように下り、上り框に正座して父を迎える。「お帰りなさい!」この一斉に迎える子供の中に、欠けている者を一瞬に見つけ出しその者の安否を問う父。

●子煩悩の極み
幼い頃、母親を亡くし、継母から逃れた父は「田村」と名のる船主の連れ合い、慶應生まれの子無しのおばさんを慕い家を出たらしい。その出会いの土地が寿都だった様だ。
明治時代、家族関係もおおらかだったのかもしれない。
父が29才の時、他人どうしで作る家庭より、家族の絆を強めたいの願いから、そのおばさんの17才の姪を嫁に迎えた。大正時代の婚姻。12の年の差をめぐり、娘たちが話題にする度に、父は少年の様に顔を赤らめていた。少年期、家庭環境に恵まれなかったからか、家族、とりわけ子供にかける愛情には、並みはずれたものが有った。一人一人の性格を客観的に把握し、これに合わせた教育、躾はおしなべてどの子にも厳しかった。
小学校の父兄会の役員はかってでたのか、町の著名人だから回ってきたのか、時間に縛られない生業からか定かでないが、敗戦のあの夏まで、この仕事にも奔走していた。
子供たちの父の思いで話に共通するものは運動会。
役員席になっていたテントの下に、羽織袴、それも神主と一目でわかる白い着物と水色の袴、紋付きの黒羽織、父の存在が競技中でも判った事。しかも応援の声は祝詞で鍛えられた大きな声、父兄の競技には率先して参加。
今思えば嬉しい事なのだが、子供としては恥ずかしさの方が勝っていた。
年に何回か開かれた父兄参観日、母よりも父の出席の方が多い。先生に対する目もことのほか厳しかった様だが、父が参観日から帰宅した日や、学期末の成績を見られる日は、何時にも増して静寂感がみなぎっていた。
一人一人の子供の成長に合わせ、同じ目線の高さで対峙された叱咤と激励。正座の足の痺れの如く、身にしみた。
サハリンの吹雪は、大の大人でさえ一歩も外出出来ない。そんな日が何日も続く。そんな夜は、父の晩酌の相手も兼ね「家族句会」が開かれる。季題が出され、指を折りながら句をひねる。言葉の選び方、感性などを観察していたのかもしれない。
ある夜の季題は「橇」。
10才に満たない私は、馬橇の2本のレールの跡が月明かりに照らされる様を詠んだ。誰の句よりも父の評は高かった。その夜のことは、60年たっても昨日の様に記憶しているのに、かんじんなその句が頭の片隅にもないのが何より残念。
厳しくて嫌いだったという姉の一人は川柳に、妹の一人は短歌に取り組んでいる。
詩、短歌、俳句、川柳、随筆にと手を出した私は、どれも様にならないまま今日まできたが、70才で詩吟の師範試験に臨んだ母の娘。まだ、どれも捨てるわけにも行かず、失敗作を連ねている。
あと3年もすれば父の享年の年を迎える事になるのだが、果たして私に繋る者たちに、無形の遺産を送ることができるだろうか。さりとて有形はことさら難しい。
せめて、北国の桜の季節を迎えるために、雪解けと共に路上に顔を出してるゴミの始末をする姿ぐらいは、4月の私の歳時記となった「父」の姿に重ね残しておきたいものだ。
21世紀の父と子に、新しい形の深い絆が生まれることを願いながら。

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